自転車とカメラと不思議な感覚
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自転車とカメラと不思議な感覚 デジタル一眼レフカメラを買った。 今まで、海外旅行に行っても写真を撮るのはいつもヨメさん任せだった。 旅行で重要なのは「生」の体験。 写真なんかニセモノの世界。そんなのいくら撮っても意味がない、頭に焼き付ければいいんや! そう常に叫んでいた自分が、いつの頃からか写真を撮ってみたいと思うようになっていた。 今回の旅に合わせて買ってみた。 今までの旅に無かった別の要素が加わり、思いもよらず旅の印象が濃密になった気がした。
旅から帰ってきても、何かにつけてちょこちょこ持ち歩いてみた。 持って出たにも関わらず。1枚も撮らない日もあった。 そんな折、自宅のすぐ近くの自転車屋に行くことになった。もう8年も乗っている折りたたみ式自転車のチェーンがゆるゆるで、走っているとすぐに外れてしまうからだ。 ほんの2、3分の距離、撮るものなどないけど、とりあえずカメラ持って出てみよ。
自転車屋で聞いてみると、ゆるゆるのチェーンはもう交換するしかないという。 ついでに前輪のブレーキももう利かない。後輪を見てみると擦り切れて今にも破れそう。 チェーンにブレーキにタイヤ…。もう新しいの買ったほうがいいかも。 もうちょっと乗ろう、近いうちにバラバラになると思うけどもうちょっと乗ろう、そうやって何ヶ月も耐えてきたが、さすがに限界だった。 新しい自転車を物色してみる。なかなかいいのがある。 買おかな? リボ払いでご購入決定。これでチェーンが外れる心配もなくなった。
すると店員さんが「古いのはこちらで処分しておきますので」と言う。 よかった。無料で処理してくれるなんて。 そう思って、この今にもどこかの部品が取れそうな折りたたみ式自転車を渡そうとした瞬間、今まで抱いたことのない感情が突然おそってきた。 ・・・なんやろ、この感情は? すると次の瞬間、この自転車とともに過ごしてきた8年間が走馬灯のように頭を駆け巡ったのである。
結婚前、ヨメさんと一緒に暮らそうと引越しをした。 アパートに自転車置き場がないから、自分たちの住む2階まで持って上がれるようにと折りたたみ式にした。 キレイな色。新宿で見て一目ぼれし、折りたたんで電車で持って帰ってきた。 小さいうえにギアがないから、こいでもこいでも前に進まない。 でもキレイな色だから好きだった。 駅前の自転車置き場に置いておいたら、誰かにブツけられてすぐにキズだらけになった。 俺の宝物にキズつけやがって! と思いながら、周りの自転車を蹴り倒したい衝動を抑えた。 うだるような暑い夏の日、こいでもこいでも進まないこの自転車で、3駅も離れたコミュニティセンターまでマイムの練習をしに行った。 ある日、乗ろうと思ったらライトが盗まれていた。 夜、そのまま無灯火でこいでいたら警官に声をかけられ、「ライトつけろ!」と言われてカチンときたから「取られた!」とだけ言って通り過ぎた。 そしたら警官が猛スピードで追いかけてきた。 毎日毎日バイト先までこいだ。 雪の降った朝、道路が凍結して転んだこともあった。 大人になって自転車で転ぶなんて。 自転車についたキズより、ずるむけになった自分の手のひらのほうが気になった。 そのうちサドルがサビついて、高さを調節できなくなった。 二人で住み始めたものの、ホントに貧乏だった。今でも貧乏だが、心の余裕さえなかった。 雨だろうが台風だろうが、バスなんか乗ったらお金がかかるからとにかく自転車に乗った。 何につらいのか分からないけど、つらかった。今思うと、とにかくつらかった。 なかなか進まないのは自転車か、自分の思いか…。 それも今日で終わり。あっけなく終わり。
しばらく自転車のサドルに手を置いてみる。冷たい。 このまま持って帰ろかな? でも持って帰ってどうする? 乗らなくなった自転車を? このなんともやるせない気持ちを処理できる方法が分からない。
ふと思った。「…カメラ持ってるな…」 店員さんに「ちょっと待ってください」と告げて、折りたたみ自転車を街路樹の横に持っていき、そこでバチバチと撮り始めた。 右からも左からも、前からもななめ後ろからも。フラッシュたいたり、たかなかったり。 破れそうなタイヤも、ゆるゆるのチェーンも。とにかく撮った。 後ろで見ていた店員さんが近づいてきて、「あの…」 「すみません、もう1枚だけ」と、最後にハンドルのサビの部分をアップでおさえた。 すると、店員さんがなぜかささやくような声でつぶやいた。 「…ありがとうございます」
自転車を渡した。 店の外に並べられた折り畳み式自転車は、ひときわ小さかった。 写真を写したことで、なぜか自分の気持ちに整理がついた。 理由はよく分からない。 なぜ撮りたいと思ったのか、撮ったことでなぜ落ち着いたのか、さっぱり分からない。
たかが自転車。たかがカメラ 不思議な感覚だった。
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