衝撃の沖縄民謡No.1


沖縄が好きである。チャンプルー料理や沖縄そばが好きである。琉球舞踊を見るのも大好きである。
そして何より、沖縄民謡が好きである。三線の音がこの上なく心地いいのである。

「民謡」というと古いもののように思うかもしれないが、今もなお、若い民謡歌手の間でどんどんと新しい民謡が作られている(正確には、これらが淘汰され、何年にも渡って広く愛され歌われたものが「民謡」となるのであるが)。
現在、沖縄民謡と呼ばれているものは、何百年も前から伝わる古典もあれば、明治の頃に作られたもの、戦後に作られたものもたくさんある。

つまり、沖縄民謡は時代時代を反映して作られ、そして今も増え続けているというわけだ。

だから歌の内容もすこぶる幅広い。他のジャンルでもよくある「恋の歌」だけじゃなく、生活を歌ったものや、郷土愛、家族愛を説くもの、戦争の哀しさや自然の美しさを語るものなど色々ある。何ヶ月も海に出ていた猟師が、久しぶりに帰ってきたときの嬉しさと誇らしさを唄ったものや、ある男にホレてしまった遊女が、悲恋にじっと耐える唄なんてのもある。また、「県道」を作る際に牛馬のごとく使われた人が、立っているだけの現場監督に対して皮肉を言うような唄があったりする。

知れば知るほど興味は尽きない。

そして、琉球音階のせいなのか、はたまた沖縄の楽器・三線の音色のせいなのか、非常に明るく陽気な印象のものも多い。しかし、中にはタイトルを見ただけで、あるいは唄を聞いてその歌詞の内容を知り、沖縄の歴史の深さに衝撃を受けてしまう、そんな民謡も数多く存在するのである。

さぁ今日はそんな沖縄民謡の中から、個人的に衝撃を受けた唄たちを紹介してみたいと思う。
どんな唄が飛び出すのか!? それではいってみよう!

「衝撃の沖縄民謡」No.1、まず第3位!

『PW無情』

何が驚いたって、まず民謡なのにタイトルにアルファベットが使ってあること。
これは戦後にできた沖縄民謡なのだが、実はPWとはPrisoner of War、つまり戦争捕虜のことなのである。

太平洋戦争では日本で唯一、地上戦が展開された沖縄本島。戦争に関する民謡もたくさんある。その悲惨さ、哀しさを伝えるために、あえて標準語で作られている唄もある。この唄はウチナーグチ(沖縄弁)のため、方言を知らない人にとっては意味が分かりにくいかもしれないが、曲の入りや全体的な雰囲気から、誰もがむなしさを感じるだろう。

沖縄では今もなお、当時の不発弾がしょっちゅう見つかっている。そのたびに何百人、ときには何千人もの周辺住民が退避し、爆弾処理が行われる。戦禍は今も続いているのである。

ちなみに皆さん、6月23日は何の日か知っていますか?
沖縄でこの日のことを知らない人はいないが、逆に沖縄以外の人でこの日のことを知っている人はあまりにも少ない。
ご存知ない方は調べてみてくださいな。

戦争に関する民謡の代表的なものとしてこの唄を選んでみた。興味ある方はぜひ聴いてみてほしい。

それでは次にいってみよう、衝撃の沖縄民謡、第2位!

『ハワイ節』

これまた「ハワイ」という外国の地名が登場しているが、これもまた沖縄の歴史を物語る重要な唄である。

1899年より、沖縄からハワイや南米への移住が始まった。移住する理由は人によっていろいろあっただろう。この唄は、ハワイに出稼ぎに行こうとする男、そして稼いで帰ってきてくれるのを待つ女の歌である。

別れの哀しさ、どうなるか分からない不安、しかし絶対に故郷に錦を飾るんだという思い、いろいろな感情がこめられている。この唄では数年で帰ってくるような感じだが、文字通り生きて帰ってこられないことを覚悟し、遠い国々に骨を埋めるつもりで移住した人々もたくさんいた。そんな人たちが故郷のことを思い、各国で独自に生まれ歌い継がれている民謡もあるという。

沖縄の人たちのつながりはとても強く、そのような国では必ずといっていいほど沖縄県人会のようなものがある。
そして今ではウチナーンチュ2世、3世、4世が生まれており、そんな人たちの中から沖縄で民謡歌手としてデビューするという、まさに逆輸入な人もいる。

沖縄の人同士のつながりは海外だけではない。日本国内の各都道府県にも出稼ぎに出ているウチナーンチュがたくさんいて、あちこちで沖縄県人会が作られている。

これは民謡唄者の上間綾乃の話である。
彼女は沖縄在住なのだが、日本全国を飛び回り、大きなライブハウスから小さな居酒屋まで、ありとあらゆる場所で沖縄民謡を歌っている。そんな彼女が茨城県のとなる小さな会場で歌うことになった。
決して交通の便がいい所ではなかったが、たくさんの人が聴きにきてくれ、和やかな雰囲気でライブは進んでいった。
客席にはもちろんウチナーンチュじゃない人もいるが、見た目から明らかにウチナーンチュっぽい人も大勢いる。沖縄から出稼ぎに来ている人、あるいはこのあたりに移住・定住しているウチナーンチュがいるのだ。

そしてライブもいよいよ佳境に入ってきた。すると、客席からすすり泣きが聞こえてきた。
沖縄民謡を聴いてふるさとのことを思い出したのか、あるいは小さいころおじいさんやおばあさんが故郷を思って歌っていたのを思い出したのか・・・。
胸がいっぱいになったお客さんが、何人も何人も、次々にすすり泣き始めた。
それを歌いながら見ていた上間綾乃も涙をこらえきれなくなり、ついには歌詞につまりそうになった。
そのとき、客席から声援がとんだ。
「ちばりよー!」(頑張れよ!)

思わず顔がほころぶ上間綾乃。客席からもドッと笑い声が漏れる。

このような空間、時間を共有できる、そんな一体感が彼らにはあるのである。
沖縄の人の絆の強さ・・・。県外に出ているからこそ、思いや絆がさらに強まっているのかもしれない。

さて、それではラストにまいりましょう。
「衝撃の沖縄民謡」、第1位はこの唄だ!

『アッチャメー小・多幸山』

これは歌自体もいいが、歌っている人(もちろん三線を弾きながら)も込みでこの歌にした。
というわけで正確には、「喜納昌永が弾いて歌うアッチャー小・多幸山」(読み:あっちゃめーぐゎ・たこうやま)である。

喜納昌永・・・。
あの有名な『花』(♪花は流れてどこどこ行くの〜♪)の作詞作曲者・喜納昌吉(チャンプルーズ)のお父さんである。
今では沖縄の定番の楽器となった三板(さんば)やカンカラ三線は、この昌永さんが作ったものである。

カンカラ三線は、戦時中、どうしても三線を弾きたくなった昌永さんが、戦場で見つけた空き缶とタコ糸で作ったものである。それが今や、子供用の簡易三線として売られている。

また、通常、沖縄民謡は師匠から聴いて覚えていくものであるが、それを工工四(くんくんしー。三線の楽譜のこと)の形に残したことも昌永さんの功績として挙げられるだろう(工工四を作成した人は他にもいるが)。こうすることで、民謡を後世に確実に残せるようになったのである。

まさに沖縄民謡の歴史とともにある人なのである。

そして、この昌永さんは三線の早弾きの名手でもあった。
その音源が残っており、何年か前にCDとなって発売されたのである。
その早弾きの極みといってもいい曲が、そのCDに収録されている『アッチャメー小・多幸山』なのである!

これを聴いたときは本当に度肝を抜かれた。民謡というよりも、ロックである。いや、これこそまさにソウルミュージックだ。
3分半と短いが、聴き終わった後にものすごいカタルシスがある。
途中に「ハッハッ」とハヤシが入るのだが、三線が早弾きすぎて、ハヤシのタイミングが微妙に遅れているようにも感じられる。

もう10年ほど前になるが、私はこのCDを手に入れたあと、息子の喜納昌吉さんがやっているライブ居酒屋が那覇にあることを知り、そこに昌永さんもたまに出演されているとの情報を得た。そこで早速那覇に飛び、そのお店「もーあしびチャクラ」を訪れた。
その日、幸運にも昌永さんが出演され、生歌を聴くことができたのである。
もうかなりお年を召しておられたので早弾きとまではいかなかったが、1曲ではなく何曲も歌ってくれた。
ただの歌だけではなく、これまでの大きな歴史をも感じながら聴いていた・・・。

その数年後、昌永さんがお亡くなりになったとのニュースを見た。
自分にとって最初で最後の生歌となってしまったが、当時まだそれほど沖縄民謡を聴いたことのなかった自分にとって、沖縄民謡に詰まっている思いや歴史を感じさせてくれた唄だった。

そんなこんなも含めて、この唄を1位にしたい。

以上、「衝撃の沖縄民謡」No.1でした。
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今さらだがあえてまた好きと言っておきたい洋楽女性シンガーNo.1
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