日本人神父とネパール人青年


バラナシから長距離バスに乗り、ポカラへと向かった。
ポカラはネパール第二の都市、と言ってもさほど大きくはない。
朝っぱらからバスに乗り、どこまでもどこまでも山道を走り、日が落ちてからようやく、インド・ネパール国境の町・スノウリに着いた。

ここのドミトリー(5、6人が1つの部屋に泊まる安宿)で一泊して、翌朝からまたバスに乗る。
途中、アグラでこわしたお腹がグルグルゴロゴロと鳴る。
こんな腹具合で長距離バスに乗るのは不安だったが、居眠りしていると体の働きが鈍るのか、ゴロゴロ具合がおさまる。
ところが、目が覚めるとまたゴロゴロゴロ・・・。
いかんいかん、と目をつぶった。

何時間ぐらい乗っただろうか、どうやらポカラが近づいてきたようである。
と言っても、見えてくるのはひたすら田舎の風景なのだが。

すると市内に着く直前、ネパール人らしき男が1人、バスに乗り込んできた。
なぜか手ぶらでこざっぱりした格好。
我々が日本人と見てとると、おもむろに近づいてきて、「ホテルは決まっているか?」と聞いてくる。
決まってないと答えると、「じゃあ私の所に泊まりなさい。きれいで安い。連れてってやるから」などと言うのである。

バスの中まで商売しに来たか、まぁとりあえず見に行くだけ行ってみるか、とKSと相談し、「もし汚かったら別のとこに行くぞ」とおどし(?)をかけてみた。
するとおっさん、「もちろんだ」とかなり強気である。
バスを降りて、ターミナルに止めてあったおっさんの車に乗り、ホテルへと向かった。

すると・・・、ありゃりゃ、おっさんの言う通りかなりきれいだ。
後で分かるのだが、ネパールのホテルはきれいに掃除されている。
ベッドのシーツも真っ白だ。(インドが汚すぎるだけかもしれないが)。
そしてネパールに入るあたりから、いわゆるインドのほりの深い、鼻が高くて目が大きいアーリア系の顔から、我々日本人に近い、少し色が白くてのっぺりとした顔のモンゴロイド系の人をたくさん見かけるようになる。風景も日本の田舎のようだ。
妙に親近感を覚えてしまう。
「なかなかええんちゃう?」とKSも同意、泊めてもらうことにしたのである。

今回、ポカラに来た目的の1つは、ある日本人神父に会うためである。
と言っても、お互い全く面識もない。
その神父は、ポカラで障害児、特に聴覚障害を持った子供たちに教育を施している。
何年か前に本で読んで知り、どうせなら行ってみたいと思っていたのである。
住所も細かい所までは調べてこなかったが、おそらく近くまで行って誰かに聞けば分かるだろう、そう思って一人でホテルを出た。

ちなみにここポカラでは、KSとは別行動。
そうしようと決めていたわけではないが、神父に興味を示さないKSをムリヤリ連れて行っても仕方が無い。
彼は彼でトレッキングなどに出かけたいようであった。

すぐに迷った。

タクシーの運転手に聞いても知らないと言う。
困っていると、ちょうど目の前の家からネパール人青年がひょっこり出てきた。
すかさず住所を書いた紙を見せると、どうやら彼は英語が分かるようで、「近くまでなら行けるかも」と言ってタクシーを止め、一緒に行こうと言う。

しばらく舗装されていない道路を走っていると、運転手が「この辺やと思うけどよう分からん。降りて探してみたらどない?」と言うので、青年と二人して降りて、歩くことにした。
途中、青年が色んな人に道を聞いてくれる。
そんなことまでしてくれるなんて、親切なのかよっぽどヒマなのか・・・。

やっとの思いで見つかった。
門のところを見ると、「大木神父」と、なぜか日本語の表札がかかっている。
全く教会には見えない、十字架もなにもない質素な建物である。
いや、ここは教会というより学校だ。
物怖じせず入っていくうへだゆふじを見て、その青年も後からついて入ってきた。
ドアを開けて中に入ると、そこが事務所のようになっており、男の人がこちらに背を向けて座っていた。
その方が大木神父だった。
ポロシャツを着て、とてもラフな格好。
そんな大木神父に声をかけ、「はい」と振り向かれた瞬間に、何を言おうか全く考えていなかった自分に気づき、しどろもどろになった。
それでもこの突然の来訪者を快く迎え入れてくれ、少し戸惑い気味の青年と共に、奥へと招き入れて下さった。

中の子供たちは只今勉強中である。
我々を見た子供が一人、教室を飛び出してきて抱きついてきた。
満面の笑顔であるが、体の動きがどこかぎこちない。
腕を触るとものすごく硬かった。
こっちへ来なさいとばかりに、先生に連れ戻される。

その後、授業の様子を小さな教室の後ろから見学させてもらった。
1クラス3、4人である。
耳の聞こえない子が、言葉をしゃべる練習をしている。
生徒は全体で20人ぐらいだろうか、先生は大木神父を入れて日本人が二人、ネパール人が二人だったと思う。

この日は土曜日という事で半日で終わり、みんなで食事となった。
大き目の部屋に全員輪になって座る。
カレーとチャパティである。
みんなスプーンを使ってきれいに食べている。

正直言って、インド人やネパール人のマナーはあまり良くない。
女性や子供でも、平気で道端にカーッとたんを吐く。
しかしここでは大木神父のしつけが行き届いており、食べ終わった後のお皿をみんなで洗って片付け、歯磨きまでしている。
一緒に食べていたネパール人青年は、逆にとても居心地が悪そうだった。
自分も食べている間、何か間違った事をしてしまうのではないかとドキドキしていたのだが・・・。

その後、校庭を見せてもらい、大木神父としばらくお話をした。
気さくな方だった。
実は以前、ここを取材したテレビ番組を見たことがあって、その事なども話していたのだが、ふと見ると、その番組で生徒として出演していた女の子がいた。
もう何年もたっているので大きくなっていたのだが、顔を見て思い出したのだ。

神父に聞いてみると、その子はここを卒業して先生になるため日本に留学し、帰ってきて今は先生なのだと言う。
彼女も耳が聞こえないのだが、会話がきっちりとできる。
相手の口を読み、はっきりと発音してしゃべる。
健常者でも文盲率が高い中、彼女は読み書き計算ができる。
そこの生徒たちの大きな目標である。

そうこうしているうちに下校時間となり、うへだゆふじも青年とともにおいとますることにした。事前に日本から持ってきていた、たくさんの風船をプレゼントとして手渡して。
帰る途中、そのネパール人青年はいたく感激した様子で、「こんな所で障害児教育がされていたとは知らなかった。しかも彼は日本人じゃないか!」、と興奮気味に語っていた。

大木神父についてしきりに聞いてくるので、本で得た知識をひたすら教えてあげた。
二次大戦中、海の特攻隊とも言うべき「回天」の隊員で、突撃直前に終戦を向かえた。
どうせなくなるはずの命だったのだから、残りの一生を人のために使いたい、というような事を思って歩んでこられたらしい。

・・・言うだけなら簡単でただうさんくさいだけだが、ご本人が本当にネパールまで来てやっておられるのだから、誰もが「う〜ん、そ、そうなのかぁ〜」と認めざるを得ない。

「いい経験ができた」と喜ぶ彼に誘われるまま、この日は彼の家に呼ばれ、そこで食事をごちそうになった。
ベッドしかないような質素な家で、手際よく作ってくれたとても塩辛い料理。
「明日は何をする?」と聞いてくるので、「特に何も決まってない」と答えると、「じゃあ俺の実家のあたりを見てみるか? すぐそこだから」と誘ってくれる。
「今日は悪いがもう寝させてもらう。俺は最近まで長く入院してたんだ。ほんとに体が悪くて病弱でね」と彼が言うので、また明日来るよと言い残し、ホテルへと戻った。

戻るとKSもどこかで友達を作ったらしく、一日楽しく過ごしたのだという。

お互い、次の日も早く起きて出かけていった・・・。

次回、ポカラ編Part.2に続く・・・。
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