旅を終えて


とうとうインドを経たねばならない日が来た。
一旦、バンコクへと向かわねばならない。

旅行中、一度だけ自分が日本に帰った夢を見たことがある。
夢の中で、「あ〜、もう日本へ帰ってしもた」と嘆いている時に目が覚めた。
まだインドにいた。ホッとした。

それほどインドにいることが嬉しかった。
しかし、もう帰らなくてはならない。帰る所があるからこそ、旅なのである。

カルカッタの空港に着くと、前日お世話になったマザーハウスのシスターたちがいた。
早速声をかけ、「昨日はお世話になりました。とても充実した時間をすごせましたよ」と言うと、「いつでもいらっしゃい」と返してくれた。

ここの修道女は、マザーだけでなくシスターたちも世界中を飛びまわっているらしく、彼女たちもこれからバンコクへ向かうのだという。
どこに行くにも、白地に青のストライプが入ったサリー姿である。
世界中で修道女になる人が減っているなかで、マザーの所だけは志願者が増えているという。

そんなマザーは我々がカルカッタを訪れた日から半年も経たないうちに、・・・亡くなってしまった。

公式には最後の半年間、日本人は誰もマザーには会っていないことになっているらしい。
我々は会っている。
二度とない貴重な経験だったと、あとからさらにその重みを感じた。

そんなマザーは今月(2003年10月)、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世によって「聖人」の前段階の「福者」に列せられた。
死後6年で福者の列に加えられるのは、最近のカトリック教会の歴史では異例の早さである。


さて、そんなカルカッタからバンコクへ飛んだ。
カオサン通りなら慣れたもんだ。
2泊し、その間、前回来た時友達になった人を訪ね、屋台を楽しんで別れた。
日本に帰った。

帰ってからしばらく、KSも自分も呆けていた。
自分はその一ヵ月後に舞台公演が控えていたが、いつまでもインドをひきずっていた。

一方KSも、「これを聞かんと力が出えへん」と、ネパールで買ったインド音楽のカセットを毎日聞いていた。
あげくにはインターネットでインド音楽のCDを注文し、幾度となくそれを聞いていたという。
インド病である。インド病患者である。

インドに行った人は、大好きか大嫌いか、どちらか極端に別れるという。
我々は完全にはまってしまった。
その後、旅の途中でお世話になった人たちに手紙を書いた。
大木神父に、あのネパール人青年。
また逆プロポーズされたマヤにも、その時撮った写真を同封して送った。
郵便事情が悪いネパール、それらはちゃんと届いたのだろうか?

そう思うのも忘れた頃、一年も後になってあのネパール人青年から手紙が届いた。
封筒を見ると、その年よりさらに10年も前のソウルオリンピックの切手が貼ってある。
・・・遠い過去から来た手紙のようだが、何か大事な時に使おうと取っておいた物だったのかもしれない。

あけてみるときれいな字で、何か詩でも読んでいるかのような流れるような英文で書いてある。
彼は病弱だと言っていたのだが、やはりまた健康を害していたらしくしばらく入院していたらしい。
未だに日本へ行きたいと思っていて、誰か保証人を紹介してくれと書いてあった。
仕事もなかなか見つからないらしかった。

どうすることもできなかった・・・。

こうして我々の旅は終わった。

またそのうちに行くだろうと思っていたが、あれから6年、その機会は訪れていない。
KSはその後、香港やヨーロッパなど何度か旅行をしているようだが、あのインドを越えるほどの濃密な旅は、まだできていないという。

また行く時が来るだろう。
その時インドは、どう変わっているのだろうか?
その時自分は、どう変わるのだろうか?

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これで、20回に及ぶインド旅行記は終わりである。

旅行中には一切メモもとらず、またレコーダーやビデオなどの記録も全くとっていないので、全て上田雄士の記憶と、その時使ったガイドブックの記載をもとに書いたことになる。
旅を共にしたKSに聞けばまた見方が違うところもあるだろうが、これが上田雄士が体験したインド旅行である。
二人とインドが交わった時に起こるアクシデンタル・コラボレーション、これにてセッション終了である。

お疲れ様でした。
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Oh! マザー!! 後編
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